rkgkpyrk

^q^

厄介オタクの怪文書。

オタク忘年会(学生時代のサークルの仲の良いクラスタ)があった。個人的に幹事と仲が良かったから呼ばれたものの、年次としては最高齢だったので、老害として周りに気を使いつつ、楽しく酒を飲むなどしていたが無理だった(?。

近年のアニメにおける旧作品のリメイクなども踏まえ、半分の月がのぼる空などはもう作者などが行方不明だからねぇなどという話をしていたら、オタクが『半月*1は今どきの人々には受け入れられないのでは?』などと言うので、『屋上に行こうぜ・・・ひさびさにキレちまったよ・・・』という感じになってしまった。

曰く、近年の異世界転生モノのような、『現実の否定』といった観点が重要とのことだった。そもそも嗜好には多峰性があるから、別に何から何まで現実逃避をする必要は無いと思ったが、ちょっと思うところがあったの反論することにした。そもそも人間の発する意見などは大体思いつきで支離滅裂なので、きっと言った本人もなんとなくそう思っているだけで、そこに確固たる確信は無いのだと思うのだけれど。

確かに異世界転生モノの作品群からは現実が無価値である、もしくは何らの大きな不満を抱いているといったメッセージが感じられる。しかしながら、半分の月がのぼる空はその対極ではない、つまり同様に強い『現実の否定』をする立場の作品であると反論した。

田舎という狭い世界、秋庭里香の病状という紛れもない現実、裕一はこれを全力で否定する、そういう立ち位置であったように思える。そんな話をしたら、『裕一のような泥臭く描かれるキャラクターは現在はあまり受け入れられないのでは?』というまた別の観点での反論があった。

泥臭い過程は現在は受け入れられないのだろうか?泥臭い過程を描く作品として、ラブライブ!!シリーズを出してみた。あれは確度の高い勝利を描いた物語ではなかった。希望の見えなくても前に進んだ作品のように思える。このあたりはout of scopeのようでイマイチピンと来ていなかったようだが、まぁそういうこともあると思い、具体的にどういった泥臭さが現代のトレンドに即していないのかといった方向に深堀してみた。

たとえば、裕一がキレて酒を飲んだくれるシーンが受け入れられないのでは、とのことだった。正直な所、僕は半分の月がのぼる空大好き厄介オタクであるものの、そのシーンが思い出せなかった。多分読んでいた頃自身が未成年だったこともあり、未成年の飲酒にそれほどメッセージ性を感じなかったのではないかと思う。『確かに飲酒シーンや、1巻のような無免許で原付に乗るシーンなどは現在は放送出来ないかもしれないね』とか言ったら『そういうことじゃない』らしい・・・難しい・・・。

なんとなく思っているけれど、どうしても言語化出来ない、妙にひっかかる、みたいなことはどうしても生じてしまい、自然言語によるロジックのぶつけ合いというのは往々にして空中戦になりがちである。半月にも『現実の否定』という観点があり、泥臭さは現在も受け入れられるのではないかというところまで納得してもらったものの、やっぱり引っかかるところがあるようだった。議論は平行線、まぁそんなものだと思う。下手にねじ伏せるより現実的だ。

『現実の否定』という観点で、我々が異世界転生するのと、裕一のように高校生に戻るの、どっちが現実的か*2という話になり、ここまで来ると高校生に戻るより、異世界に行っちゃうほうが現実的(?)かもしれないね、という話になった。なんとなく、高校時代という明らかに過去に執着してる感じより、異世界転生のほうが清々しいのかもしれない。まぁ時間切れということで、そんな感じで議論は打ち切られた。

やや曖昧だが、泥臭さ、そして現実の否定をどう解釈するかがポイントなのかなという感じがあった。

泥臭さに関しては、家に向かいながら、ふと裕一の刹那的な行動はイマドキの人々(???)に受け入れられないかもしれないなと思った。酒に飲んだくれたって何の解決にもならないし、ある場所に行きたいとなったとき、深夜に無免許で連れ去るようなことをしなくても穏便な手段はいくらでもあったように今更ながら思える。もしかしたらオタクはそういうところに違和感を感じつつ、上手に言語化出来なかったのかなとかそんなことを思った。

そう思うとなんとなくピンと来る。多分流石ですお兄様は一見不思議な行動に見えることはあっても、徹頭徹尾合理的な意思決定をするのだろう。非合理ムーブと合理的な意思決定の間で右往左往する我々としては思うところがある。非合理ムーブはもはや近年の人間には受け入れられないのかもしれない。つらいとき酒に逃げるのは確かに老化のような気がする(そうか?)。

現実の否定に関しては、裕一は確かに現実を否定する立場にいたが、もしかしたら半月においては、相対的に見て、まだ希望があったという話なのかもしれない。田舎に絶望したって都会に希望を持てば良い。何より半月はハッピーエンドなのだ。

一方で、読者からすれば都会に出て絶望する裕一がイメージ出来てしまうのかもしれない。現世になんて希望がない、異世界転生するしか無いんだよ。なんとなく『確かにそうかもしれないな』と一人で頷く自分がいる。

まぁなんというか、『現実の不条理が見えていなくて、見えてきたその1つ1つと向き合っていく』という価値観はやや前時代的で、『既に世の中の不条理はしっかり可視化されていて、開拓者たちの努力ですら変えられなかったモノが残っている、受け入れるしか無い(だから異世界転生しかない)』なんてのが近代的なのかもしれない。そんなことを考えながら、なんとなく裕一は前者だけど僕は後者だよな、好きなもののことを考えるというのは厄介だな、と感じる今日この頃だった。

*1:半分の月がのぼる空の略称。

*2:もちろんどちらも非現実的だ。